和光稲門会
和光市の歩み

   


 わがまち“和光市”は、昭和45年(19701031日、旧大和町から「平和・栄光・前進」を象徴する「和光市」として市制を施行し、新たに発足した。

 東京都板橋区および練馬区に隣接し、東京西北部のターミナル「池袋駅」から8km、電車で12分という地理的条件にも恵まれたこともあり、急速に進展した都市化の波は、人口の急増、交通網の整備と併せ、短期間に近代都市への変貌を遂げた。すなわち、営団地下鉄(現、東京メトロ)「有楽町線」の乗り入れで、都心まで30分足らずの便利さ、また、東京外郭環状道路の開通により、本県から東京都への西南の玄関口として、また、交通の要衡として枢要な役割を果たしている。

 さらに、平成5年(1993)、和光市新庁舎および和光市民文化センター(サン・アゼリア)の建設ならびに翌年の和光市駅前地域の開発整備も急速に進み、近代都市機能をもつ首都圏の衛星都市として、ますます発展・充実が期待されている、活気あふれるまちである。

 外郭環状道路が荒川をまたぐ橋として、戸田市・和光市間に建設された1500mにおよぶ大斜張橋「幸魂(さきたま)大橋」は埼玉の“ベイブリッジ”と言われ、わが和光市が誇るシンボルでもある。

 “さきたま”は、万葉集・東歌からの由来とされ、「幸魂」の意で、人の身体を守って幸福を与えてくれる神の働きと解され、古くは前玉と書いたこともあり、前玉=幸魂=埼玉という説がある。また、都下多摩地方の前であることから「さきたま」という説もある。

 和光市の生い立ちをたどれば、江戸時代は、江戸の中心・日本橋から5里(20km)という至近距離から、近郊農村として栄え、明治22年(1890)新町村制により、白子村と新倉村が誕生し、米麦生産のほか「白子人参」や「新倉牛蒡」という根菜栽培も盛んな純農村であった。

 大正3年(1914)、東武東上線開通に伴い、地域の開発が進んだが、昭和15年(1940)、旧朝霞ゴルフ場跡に「陸軍予科士官学校」の移転と、軍需工場の相次ぐ進出により、にわかに「小軍都」へと変貌した。戦雲、急な昭和18年(1943)、当時の国策もあって、両村は合併し「大和町」が生まれた。

 戦後は、軍用地等が米軍駐屯地となり、基地特有の問題に直面したが、その後、相次いで返還され、「本田技研」「理化学研究所」「西大和団地」および「小・中・高・養護学校」そして「市庁舎等」が相次いで建設された。

 市の木は「銀杏(イチョウ)樹」で、市内(長照寺)には400年を超す有名な老樹があり、名所となっている。

 近年、急速な開発等で新住民の参加や市民意識の変化などにより、和光市をとり巻く諸環境は変わりつつあるが、誰でも知っている童謡「叱られて」「靴が鳴る」「雀の学校」を作詞した童謡詩人「清水かつら」が、関東大震災後からの半世紀を市内白子地区に住んでいたこともあり、彼の業績を顕彰するとともに、新旧市民に共通するこの優れた文化遺産を、他市に誇るべき特色として、決して風化させることなく、次の世代に正しく伝えていく責任を、ひしひしと感ずる次第である。

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