和光稲門会
会員コラム


 「第一回和光の歴史を訪ねる会」に参加して
上川 巖(63年法卒)

 
▲浅久保の富士塚で記念撮影 

 和光市に住んでかれこれ30年になるが、散歩がてらに、近所の神社や仏閣を漫然と訪ねたことはあっても、その歴史や由緒などは知る由もなく、旧川越街道についても三代将軍家光が家康を祀った仙波東照宮に参詣するために、金を掛けて整備した道路だという事ぐらいしか知らなかった。

 それが、9月10日の「第一回和光の歴史を訪ねる会」の催しに参加して、柴崎先輩や「和光文化を育む会」の鍵和田さんと副島さんの案内で、熊野神社やC龍寺不動院、そして白子宿が江戸時代から近世まで、いかに栄えたかということや、本来の川越街道で難所と言われた胸先き上がりの大坂、諏訪神社そして浅久保の富士塚などを、徒歩で見て回り、そのわかりやすい説明を聞いて、大変興味深く思い、おおいに啓発されたのである。

 建立されて千年は経つと云われる熊野神社と神瀧山C龍寺不動院は、旧川越街道が南下して国道254号線に交叉する手前100メートル位の十字路の富澤整形外科の真横の小路を入ると、白子コミュニティーセンターの奥にある。広い境内の南端には、数百年は経たと思われる見事な三本の銀杏の巨木が左右に別れてそびえ立ち、広場の奥には風格のある熊野神社がひっそりとその佇まいを見せている。

 広場の右側には、富士山を模したという小山が、手入れの行き届いた躑躅(ツツジ)の木におおわれて、満開の花を咲かせる五月は、さぞ見事であろうと思わせる。幼い赤子を抱いた若夫婦が記念写真を撮っていた。日差しは厳しいが頬をなでる一陣の風はもう秋である。

神社の左脇には古い急な石段があり、30段程登るとそこにはC龍寺不動院があった。その境内には、富士山の溶岩をわざわざ運んできて作ったという洞穴があり、4〜50メートルはあるかと思われる曲りくねった暗闇には、電澄がつき、安産の為の胎内くぐりを楽しめるようになっている。奥軽井沢の「鬼押し岩」で見たあの黒い不気味な溶岩を膨大な量で運び込んだ費用はかなりのものであったろう。

 富澤薬局に面した十字路は、昔の川越街道と、昭和になって作られた現在の川越街道が交叉しており、新しい街道を右手に曲がると、急勾配の坂道となり、これが旅人が難儀した大坂である。坂の左側にはこんもりとした林があり、今も湧水がこんこんと湧き出て白子川に注いでいる。この大坂は急な所では25度位の傾斜となっており、昔は樹木が両側から覆い被さり屈曲していたので、荷を積んだ荷車などがよくころがり落ちていたといわれている。

 この坂を登り切ったところに、名刹諏訪神社が国道254号線の行き交う多数の車列を見下すように、しかし心細げに狭い境内に立っていた。そこからなだらかな道を和光駅方面に向かって歩くと驚いた事には、あの代官屋敷が道路に面して長屋門を構えているのだ。無論新しく構築されてはいるが、いまも柳下家の末裔が、江戸時代に建てられかつてはこの地域を支配した屋敷の外見をたもって、しかもその門脇にはモダンなフランス風マンションを従えて住んでいるというわけである。

 見学会が終わって、和光稲門会会長の鈴木氏の先祖がその墓守の為に建てたという“うけら庵”に立ち寄り、会長から“うけら庵”関連の万葉和歌の紹介を受けた後、句友俳句会の加藤三辰氏から俳句についての講義を受けて、参加者は即席の俳句などの作品を提出するように求められた。旅のフィナーレは、和光郵便局斜め向いの音楽レストラン「クロシェット・ド・ボワ」でビールを飲みながらピアノ演奏や店主の唄うカンツォーネや懐しい小学校唱歌などを聞き、大いに歓談、早稲田大学の校歌を声高らかに歌って幕を閉じたのである。

 
 【9月10日に訪れたスポット】

 白子コミセン → 熊野神社 → 清龍院不動院 → 白子橋 → 大坂 

 → 諏訪神社 → 長屋門(柳下家) → 浅久保 富士塚 → うけら庵


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