和光稲門会
会員コラム


 三人の恩師
松本豊二(71年社学卒)

【はじめに】

 60年近く住み慣れた川越市から和光市に引越して7カ月が過ぎました。
 坂の多い、分断された町だなというのが第一印象でした。
4月上旬の緑林公園の桜と緑が素晴らしかったです。 和光稲門会の皆様が積極的に活動をしておられるのに感動しました。これからは和光市の魅力を教えていただきたいと思います。

  私は中学時代から柔道を始め、以来50年柔道の世界と魅力にどっぷりつかっています。川越市立城南中学校、埼玉県立川越高校、そして早稲田大学の柔道部で主将を務めました。 中学校では埼玉県で優勝し、高校生では岐阜国体(昭和40年)・大分国体(昭和41年)に出場しました。
 その後、社会人として博報堂でも柔道部に所属して和歌山国体や全日本実業団の試合にも出場しました。退職後、アメリカ合衆国ミシガン州のミシガン大学、YMCAなどで約3年間老若男女に柔道を教えていました。
 現在も川越高校柔道部OB会長、早稲田大学柔道部理事として後進の育成に尽力しています。
 ところで、人生の節目毎に、新しい出会いと別れがあります。私の人生において、転機となった時期に素晴らしい3人の恩師に出会えたことが、いま現在があるのだと感謝しています。 

【川越市立仙波小学校63組「勝俣学級」】

 当時は学校の授業よりも外で暗くなるまで三角ベースの野球、ドッジボール、ソフトボール、陸上競技、ボール投げ、相撲等々の運動に熱中していた小学生だった。はたまた1960年の安保反対のデモ行進を校庭で、政治的意図なく、やったりしていた。ガキ大将そのものであった。

 転機となったのが勝俣福志先生の一言、「授業中すごく小さくなっている。運動しているときの元気を教室で発揮しなさい。」それから授業でも活発に発言をするようになり、作文を書くときも何回も書き直され、観察力と起承転結を心掛けて少しは書けるようになった。

 その当時の私の作文には、勝俣先生の親友が米国の鉄道王で活躍している話を何回も聴かせてもらった影響で、「ブラジルに移民してコヒー園を開墾する。」趣旨のものがある。

 このクラスの仲間は今でも仲が良く、勝俣先生を囲んで今年5月には「米寿を祝う会」を開催した。

 勝俣先生には仲間を思う気持ち、外に向かって前進することが大切だと教わった。

 

【川越市立城南中学校「笹田道場」】

 中学1年の77日、笹田道場の門を叩いた。期末テストが終わり、接骨院で診察中の笹田延男先生を訪ねた。「柔道部に入りたいので、申込みに来ました。」じろっとにらまれたが、すぐに入部が認められた。しばらくは便所掃除と受け身の練習をしていた。当時は中学校に道場がなく、町道場の笹田道場で稽古をしていた。

 夏休みで帰省した天理大学の岸田さんが、一人で受け身の練習をしている私に声をかけてくれ、大外刈り、内股の技を教えてくれた。

 いまだにその技しかできないが…。

 笹田延男先生は厳格そのもので、満州での戦争体験を必ず中間テストや期末試験の一週間前に全柔道部員を道場に集め、訓話をされた。全員正座で約30分だが、話を忍耐強く聴いた。「先生は満州の厳寒のなかの訓練でクタクタの体に鞭打ち、トイレの中にろうそくを灯して、天井に柔道の帯をぶら下げそれを持って教科書を読んだものだった。それに比べればよい環境の中にいるみんなはしっかり集中して勉強しなさい。」

 柔道部に入ったら文武両道。勉強も柔道も一生懸命やらなくてはいけないこと、そして柔道の技を外で掛けないこと、一般の人に柔道の技を使ってはいけないことを口酸っぱく指導していただいた。

 また、試合や大会の前にも戦争体験のお話、「敵の砲弾にあたる人間は躊躇して、尻籠りしているものがほとんどだ。敵に向かって先頭を突っ走っていくものには、弾はほとんどあたらないものだ。試合も同じだ。最初から攻めていけ、先手必勝だ。」

 したがって、強いものが先鋒と決まっていた。また、試合中相手にわからないように暗号を駆使して戦法を指示していた。

 今でも思い出すのが、中学2年生の春の埼玉県学徒大会の決勝戦。対戦相手は宿敵埼玉大学付属中学で何回も煮え湯を飲まされてきた。2対2で代表決定戦。私と岡村選手。大外刈りを返されて負けた。涙の敗戦だった。

 川越に帰ると選手全員道場に直行。受け身100回と打ち込み100回。悔しさと疲労で道場に座りかけたところ、出前の「かつ丼」が届けられた。道場の奥様が熱いお茶を出してくださり、涙をこぼしながら夢中で食べた。その美味しさは抜群であった。いまだに私の大好物は「かつ丼」。その時の体験が忘れられないからでしょう。笹田先生のあったかい配慮はまさに「飴と鞭」であったような気がする。

 笹田先生は、残念ながら昭和5012月に他界、奥様も平成232月に亡くなった。

 

【早稲田大学柔道部名誉師範大澤慶巳十段】

 川越のいも柔道、いつもあさっての方向に技をかけている屁っぽこ柔道と私は大澤先生に酷評ばかりされていた。怒られたことがないが、褒められたこともありませんでした。

 大澤先生の体育実技や夏期講習の実技助手を何回か務めたことで、柔道の基本を論理的、体系的に学ぶことができました。確かに稽古しているときは先生、先輩の技を「見取稽古で盗み」それから自分の技にするために反復練習することが大切ですが、実技の助手も非常に役に立ちました。

 大澤先生の授業は、初心者から初段の黒帯をもった学生達には懇切丁寧なもので、当意即妙なやりとりで笑いが絶えませんでした。授業を受けて、柔道部に入部してくる学生も何人がいました。

 私の米国ミシガン州での柔道指導方法は大澤先生のカリキュラム通り実施しました。受け身を重視し、基本に忠実な柔道普及に努めたつもりです。女子の「柔の形」も指導しました。週末はミシガン州やオハイオ州で試合の審判、柔道教室、合宿に参加していました。

 また、夏期講習の時の昼飯は「三品食堂」の大玉牛をごちそうになりました。これは大盛の牛丼に生卵をかけた絶品のものです。忘れられない味わいある丼物です。

2年ほど前の2月、村山前柔道部主将ら数名で「八幡寿司」の二階で会食していたら、八幡の女将さんから「大澤先生が下に見えておられます。」すぐにご挨拶をし、何杯がワインを飲みながら「豊二、学生時代はマアマアだったな。」八幡の四代目の親父さんが「豊二さんよかったですね。大澤先生に褒められましたね。」嬉しくなってさらにワインを飲んでしまいました。褒められたのは確か初めてだったような気がしましたから。

 和光稲門会に皆様で大澤先生の講演会で感じられたと思いますが、素晴らしい人間味あふれる人柄です。

 十数年前にNHKテレビで全日本選手権の解説をされたことがありました。アナウンサー泣かせで、質問されたことしか先生はしゃべりませんでした。最近の解説者はアナウンサー以上に喋りまくって、枝葉末節ばかりにこだわっている傾向にあります。大澤先生とは雲泥の差があると感じるのは私だけではないと思います。

 後2年後には、「大澤先生の米寿を祝う会」を企画していますが、卒寿、白寿、はたまた125歳までも長生きをしていただき、渋いのどで唄を聴かせてもらいたいです。

 
 ▲筆者(右)を相手に「空気投げ」を実演される大澤十段

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